今までに無い証券会社
その節はお世話になりました。
また再度追加の話をしましょう」「我々は、半年前に百円で契約したから商売になったわけです。
ところが、広州へ行って再び契約しようとしたら、一個3百円になっていました。
つまり3倍になっているということです。
いくらなんでも、3百円で買ったのでは、お客様に売りつなぐことはできない」と実情を話してその担当者と交渉した。
中国側は業界新聞のコピーを持ってきたり、香港のマーケット相場の資料を持ってきたりして、「いま世界では3百円でも売れます。
だから別にK電子さんが契約してくれなくてもいいです」と言う。
当時、日本のメーカーが同じ部品を3百円ぐらいで取引していたのは事実だった。
この時、Tは、Uなどからアメリカ製のCBトランシーバーの普及率が異常に上がっている状況や、アメリカで在庫がたまり始めているという情報を得ていた。
需要の波の流れから、Tは、商売にならないと判断し、「プャウ(不要)」と断った。
第2の伝説は、Iゲームだ。
CBトランシーバーのブームが終息するころに出てきた。
Iゲームは、1978年の夏、Tが開発したゲーム機でどんな大きなブームにも必ず終わりが訪れる。
この需要の波に乗り、波をつかみきることこそが、飛躍する道だ。
見切りの判断、勇気が重要になる。
CBトランシーバーのブームの急落が襲ってきたのは、Tが「不要」と言った直後のことだった。
当時、喫茶店で、日本中の人々がという形容も大げさでないくらい多くの人々が、ピコピコといく土日を響かせながら、Iゲームを楽しんだ。
その後、一気にIゲーム用IC(集積回路)の需給のバランスが崩れ、売り手市場になった。
IC一個足りなくてもIゲーム機はできない。
そうすると品薄でICがどんどん値上がっていく。
「もう各社から頼まれて、でもやっぱり足りなくてね。
極端な話、あるメーカーさんなんか、1億円の現金をトランクに入れてここへ持ってこられました。
これでICを何とか探してくれ、預けていくからという。
いやあ勘弁してください、預からなくてもうちはやることはやります」日本中探し回り、なければアメリカへ飛んでいく。
「CBトランシーバーのときに、ご縁のできた中国などへ飛んだ。
それで品物があったら、お客様へ連絡を取り、受.発注原則を守りながら、販売していった」しかし、それだけではまだまだ足りなかった。
当時のコメコン諸国と取引をしている、例えば、Nのソ連担当部署に相談したり、共産圏に強い商社を探して相談したりした。
ほかにも、T、T商事、M通商などに協力を仰ぐ。
Nの縁で、ロシアヘ飛び、ロシアの公団と話をする。
この時は、輸入元はK電子が直接ではなくて、その友好商社を通して輸入を計画した。
たまたまロシアの公団に在庫があって、それをTは全部買い取った。
「ところが、それはロシア製ではなかった。
その製造元がハンガリーにあるということが判明し、そこで、すぐさま商社と一緒にハンガリーの公団へ調達に行った。
現地では、タングスラムとい善へ人云社で製造を行っていた。
部品調達はスピードが命である。
現地で、製造中のICが目に入った」Tは、「これでお客様への責任が果たせる」と内心嬉しくなった。
すぐざま顧客に連絡を取り、納入した。
1980年頃のことだった。
例えば、EやCやVが、プリンターなどにIゲームと同じICを使っていた。
それが不足して、多くの会社がプリンターを出荷できない。
「そういうお客様からも頼まれる。
Iメーカーからも頼まれる。
ゲーム屋さんからも頼まれる。
そこで、米国、ロシアやハンガリー、ブルガリアなど、お客様に頼まれたものは、日本だけではなく、世界中を飛び回って探しました」未知の、未開拓の国へ行くわけであるから、内心不安もあったであろうが、K電子の若い社員たちは、「お客様のお役に立つなら、どこまでも」というお客様第一主義のファイトでこの波を全力で乗り切った。
このモニターは、もともとは値段の高い産業用のモニターを使っていた。
ところが、生産が追いつかないほどの膨大な数が出てくると、家庭用テレビの外側を外して使うという荒っぽい使い方をするところが出てきた。
京浜営業所所長のKも、ゼネラル(現富士通ゼネラル)のテレビを百台とか2百台買ってきて、それを自分たちで解体して、納入したりしていた。
そうこうするうちに、効率を老えて、ゲーム機にスッポリとすぐに入れられるように、鉄のフレームをつけて、「シャシーモニター」というふうにしてやったらいいのではないかというアイデアが出た。
そのシャシーモニターを、M電機のテレビの外注をしていた、石川県に本社を置くNという電機会社に頼んだ。
「当初は断られた」。
Nも一部業界向けに、同じようなモニターを作っていた。
3度目にお願いに行った時に、K電子特別什榛の「シャシーモニター」を作ってくれることになりました」。
製造はN、販売はK電子である。
これがK電子のファブレス製造メーカー、製造商社への大きな第一歩となった。
販売し始めたら、これがまた売れに売れた。
このシャシーモニターを、K電子のオリジナル商品として、日本国内のみならず、海外のゲーム業界向けにも売りまくった。
Iゲームの次はFだ。
NのF(Fの略、1983年7月15日に発売)が登場した。
喫茶店の中に置いてあるようなテーブルテレビゲームは衰退。
家庭用のファミコンへ時代の流れは移った。
K電子は、この変化に即応すべく、F用カセット作りを始めた。
このカセットもNのF用として、年間に3千万個ぐらい作られている時に、1千万個ぐらい供給した。
一方、Fブームの中で、Iゲーム機用のモニター技術が埋没しそうになってきた。
モニターはモニターで、せっかく良い物を作った技術と経験があるので、これを何とか活かせないかと思案を重ねた。
既存の経営資源の応用だ。
1977年に、アメリカで「A」などのパソコンが発売され、本格的なパソコンブームが日本よりもかなり先行して始まっていた。
このAが、ちょうどオフィスに入り始めていた。
欧米では、タイプライターの文化があったので、その代替で、ワードプロセッシングの専用機としてアップルがオフィスに入り始めたのだ。
もともとAは、パーソナルコンピューターの草分け的なものだったが、当初の使われ方としては、例えばゲームで使われたり、また簡単なグラフィックを出してみたりというような使われ方だった。
文字を出すには家庭用のテレビでは、あまりにも画面が粗過ぎた。
オフィスに入るのであれば、解像度の高い、もっと画面のきれいな専用のモニターを作ったら売れるのではないかと仮説を立てた。
Tは、「よし」ゴーサインを出し、5千万円ぐらい投資して、このCRTモニターの金型を作った。
一部では、一台15万とか20万円もする工業用のモニターがAと組み合わされて販売きれていた。
「我々はそこに着目して、専用のモニターを作ろうと企画しました。
20万円を大幅に下回る10万円の商品を考え、アップルの上に乗せても純正と見られるように、ボディーカラーと同じ色とデザインにしてグリーンモニターを作りました」自社ブランドのモノクロ・モニター「K」の誕生だ。
品質とデザインが良く、価格も非常に安いことから、爆発的にヒットした。
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